watashitachinoshiawase『私たちの幸せな時間』と「死刑」の周辺

 

 2012年2月「死刑映画週間」で『私たちの幸せな時間』(2006年韓国)を観た。孔枝泳(コン・ジヨン)の原作も韓国で多くの人に読まれたというので読んだ。

 彼女がこの作品を書く契機は、1997年12月30日の23人に対する死刑執行だと言う。韓国の「死刑」はすでに特別な意味を持っていた。つまり、朴正煕政権の1974年に、民青学連事件(人民革命党事件)で学生8名に死刑を執行したからだ。(映画『夏物語』チョ・グンシク監督2006年でも表現されている)

 原作者は死刑について調べ、原作において死刑囚と面会を重ねる主人公のセリフとなる。死刑に犯罪抑止力がないこと、冤罪による死刑があったこと、そして死刑囚の実話。警官愛人殺害事件で、初めから犯行を認め死刑判決を受けた後に偶然真犯人が捕まったケースは、真犯人が偶然に別件で捕まったにすぎないと批判する。その警官が初めから犯行を認めたのは司法システムを知っていて無罪を主張するより犯行を認めて死刑を逃れる方が得策だと考えたからだと言う。そして検事の拷問にも触れ、司法の横暴として「人民革命党事件」についても言及する。(「人民革命党事件」で死刑になった8名については2007年にKCIAのねつ造とされ無罪判決が言い渡された)

 さらに主人公は、犯行の部分冤罪を嗅ぎ取り再審の可能性まで探る。

 また、被疑者を人間として扱わない検事や、面会に来ない国選弁護人、神のような裁判官なども死刑囚本人の口から語られる。

 

 死刑とは、「死んで当然の人間」を決めることである。その根拠は表面上「更生不能」とされる。なぜ表面上なのか。明日という未来が誰にもわからないように、「更生不能」は誰にも断言できないからだ。全く理不尽な根拠で「死んで当然な人間」を決めることになる。さらに、裁判官は検察にもたれ、検察は有利証拠にのみすがり、誰にも責任が無いのである。

 懲役刑という近代刑事政策の大発明に対し、死刑は報復刑の印象があり違和感が強い。また支配階層が意志を通す場合に行使されることはソクラテスの時代から歴史が証明している。

 

 『私たちの…』では、加害者、被害者遺族、宗教者、支援者が丁寧に描かれ、刑務官の苦悩まで表現される。そして三つの「赦し」がテーマとなっている。被害者遺族からの赦し、加害者の自分への赦し、そして主人公の母への赦しである。

 彼(死刑囚)は受刑者によくある満足な生い立ちではない。彼はノートで拘置所に入って初めて人間らしく扱われたと書き「人間と人間がどうやっておたがいを尊重し、敬語を使い、心を震わせながら愛するか、を初めて知った」と述べる。この記述は永山則夫氏を彷彿とさせる。また彼は地方の小学校に金銭的支援をするので尚更であった。

 人間が人間を獲得するところが死刑確定後の拘置所だったという不幸は、どこかで補われなければならない。それが公平性のように思う。それを遮断するのが死刑執行である。

 映画は冷静に語れないほどの現実性を持ち、死をファンタジーにしていない。是非多くの人に観てほしいと思う作品であり、原作も合わせて読んでほしいと思う。翻訳した蓮池薫氏の訳者あとがきも一読の価値がある。

 

 日本の世論は「死刑に賛成」が80パーセントをこえる。これは多くの人が死刑について深く考えたことがないからだと私は勘繰っている。「死刑」をファンタジーにし、執行を数字だけで表現し隠ぺいしてきた「成果」だと思っている。

 また、韓国でこのような書籍や映画ができ、その中で死刑の残虐性や誤った死刑や冤罪について語ることができるのは、死刑執行停止国だからと思った。

 

映画『私たちの幸せな時間』(Our Happy Hours:2006)監督:ソン・ヘソン

原作『私たちの幸せな時間』孔枝泳(Gong Ji-Young:2005)著、蓮池薫訳(新潮社)

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